2021年10月07日

発注者とベンダーの責務

以前システム開発の丸投げは悪いことなのかというシリーズを書いていた。

無責任の丸投げは良くないのだが、正しい発注というのは以下の通り。

  • 発注者の責務、ベンダーの責務をきちんと切り分ける
  • ベンダーは信頼し(そもそも信頼できないところには発注しない)、必要以上の管理をしない
  • 発注者の責務はユーザー要件の定義と受け入れ
  • 発注者の中でもシステム部の役割はユーザー部門とシステムベンダーのスムーズな情報の連携

このうち、ベンダーから見て、一番やめて欲しいのは「信頼しない、必要以上の管理をする」である。
新聞が、「ベンダーへ丸投げ」などと騒ぐから、システム部門は何かとベンダーのすることの介入したくなる。
ところが、介入しようとするエリアはプロに信頼して任せるべきところであり、ベンダー側からすれば時間の無駄になることが多い。単に無駄になるだけではなく、発注者の目線でテストエビデンスなどを作ればいいということになって、時間に追われる、ならまだいいものの、本当にするべきことに頭を使うことを放棄してしまう、というのが最悪のシナリオである。

これは実際に感じることであるが、テストエビデンスはGUIの遷移を1つずつ、画面コピーを取り、EXCELに貼り付け、赤枠で囲い、丁寧に説明をつける・・・というものが多い。
一見、きちんとテストしているように見えるので、お客も満足する。
お客が満足するから、このやり方に慣れて、何も疑問を持たず、テストとはこんなものだと思い込む。
こういう時期が20年くらい続いているように思える。
技術者の半分が世代交代する長期間である。

画面仕様のテストエビデンスなら未だいいが、ロジックのテストでこんなエビデンスを作る必要はない。
ところがテストというものは、プログラムが正しく動いていますよ、ということをお客にプレゼンする行為ではなく、不具合を見つけてなんぼの行為である。こんな画面の切り貼りをしている時間があれば、どうしたら不具合が見つけられるかということに頭をフル回転させるべきである。

お客と障害会議している時、「よくこのタイミングで障害をみつけてくれた、助かったよ」みたいな発言は皆無。(障害の原因がほぼベンダーのミスなので、ここまで言うはずがないよ、と言われればそうなんだけどね)

その代わり、不機嫌な口調となり、続く言葉は、カセットテープのようにほとんど同じ。

  • どうしてこのバグが今まで見つからなかったのか?(どのタイミングで見つけても同じこと言うでしょ?)
  • バグの発生した根本原因は何か(根本原因といのは実は難しく、2つくらい遡った原因と言う意味で使われている)
  • 横展開調査はしたのか?
  • 再発防止策はできているのか?

横展開調査を課題解釈していて、全く信じられないことを言うお客もいる。
「外部設計書にミスがあった?じゃあ他の外部設計書にミスがないかを横展開調査しろ」
そんなことやってたら時間とコストがどれだけかかるかわかってる?効率を上げるために、設計書の品質は9割にして、残りの品質を上げるためにテスト工程があるんだよ。

もちろんテストが酷すぎる設計書であれば、見直しもありだけど、それなりの設計書であれば、テストでバグを発見する方がよほど効率がいいし、要員もモラルも下がらない。

あっでも発注側はSI契約しているからコスト固定、コストとか効率とか関係ないですか!?
ベンダーに任せて、プロジェクトやシステムに支障があったら、「丸投げすんな!」って怒られるから、しないよりもした方がいいってことですね。効率が下がって品質が下がっても、ベンダーのせいにすればいいからね。

この不都合な関係をどうすれば健全にできるだろうか?
悪いのは、マスコミ?金融庁?エンドユーザー?システム部門?消費者?
発言しないベンダーにも責務はあるんだろうな。

posted by しもす at 15:24| Comment(0) | IT業界

2021年10月03日

上級国民/下級国民(2)

『上級国民/下級国民』橘玲を読み終えた。
6章「リバタニアとドメスティックス」「エピローグ 知識社会の終わり」も秀逸だった。
読みやすいし、論理的に筋が通っているように見える。

ただ、なんとなくこれでいいのかな?という疑問が残る。

その理由は、様々な社会の現象、人間の心理、経済活動を、進化論的、生物学的に説明してしまうところ。
認識することと責任を逃れることは違う。
しかし、自己の問題点を生物や進化の責任にすることには一種の安堵感がある。
現題の社会や個人の問題を生物学に還元し過ぎるのだ。

もちろん事実かもしれないが、反証できないから科学ではない。
また、氏はだから諦めなさいと言っているわけではなく、建設的な意見を続けて述べている。

ただ、ネットによって意見や思考がクリップされる社会になってきているので、氏の論説で、自身に都合のいい部分だけがクリップされるという危うい状況になる。
例えば、遺伝子は多くの複製を残すことが使命であり、乗り物である人間は、複製の手段である。
男はできるだけ多くの遺伝子を残すために一人の女性には満足せず、多くの女性と性交しようとする。
男として自分が浮気するのは遺伝子のせいであり、宿命から逃れらない、というような。

何度も言うと、氏は決してそのような主張をしていないが、問題は利用されやすいとうことだ。
(それは氏の責任ではないが)

タイトルにあるような上級国民/下級国民の分断は、近代が知識あるものが優位になったことから、知的エリートと非知的階級の分断であると説く。社会に変化が起きる時は、必ずそこからこぼれるものがある。だから対立は避けられない。

分断された世界を解決する方法は、氏によれば、「テクノロジーによる設計主義」だけだと考えている、と言う。
ただし、この解決方法にしても「右派」「左派」ともに決定的な解決の方法があるわけではないと。悲観主義的な終わり方であるが、私個人も「テクノロジーによる設計主義」がうまく機能することを願う。

一見独裁主義的な社会のイメージではあるが、「民主的な」設計というものが可能であることは、オープンソースが証明している。ここに、社会の分断を解決する糸口があればと思う。

氏の書籍では非常に面白い視点が得られる。事実かどうかは別として、エピローグに挙げたベーシックインカムがどうして破綻するのか?の主張は意外だった。制度設計というのは本当に難しいものだ。


posted by しもす at 23:18| Comment(0) | 読書

2021年10月01日

アリとキリギリス

アリはどうしてキリギリスを助けないといけないか?
これを解決することが福祉の問題を解決することにつながる。

「苦労して」お金を儲けた人が、どうして「働かない」人にお金を施す必要があるのか?
ここでは、障害のある人や、身寄りのない人、病気の人への福祉は除く。

平均的な収入の家庭にあって、身体的にも健康という人達でも、努力をして経済的に豊かになる人と、そうでない人がいる。
努力しない人というのは将来も恵まれないことは理解している。
運動しない、暴飲暴食、たばこを吸う、これでは病気になる確率は高くなる。
貯金もないから老後の生活もできない。
理解しているが、将来の資産の現在価値を計算できないから、ついついつまらないことにお金を使う。

一方ではテレビやスマホを見る時間をきちんと管理し、勉強して、成功する人がいる。
勉強すること、本を読むことの方がオッズが高いのに、それに投資せず、テレビを見たり、だらだら過ごす時間に投資をした人と、そうでない人がいる。

当然配当金は違う。

アリは夏場にせっせと貯めた食料を、冬にキリギリスに渡せと言われた。
そんなバカなことはない。キリギリスはアリが一生懸命働いている間、羽を鳴らして遊び、楽しく暮らしていた。
そんなキリギリスにどうして食料を渡す必要があるのか?

福祉は再配分の問題であり、どう配るかと同時に財源をどう確保するか?という問題。
財源はもちろん労働者全員から税金や社会保険という名目で徴収するわけだが、当然稼ぎのいい人から多く取らないと成り立たない。

努力をして経済的に豊かになったアリが、素直にキリギリスに施しをすることができるか?

リベラル化され、メリトクラシーの社会では、努力しなかった人は自己責任で、福利を受ける権利もないと裁断される。
(もともと公平な機会が無い場合は別の議論が必要であるが)
左派の主張は公平な機会が無い人達の福利、配分を主張しているが、公平な機会を与えられた人達、または、より豊かになる機会を持った人がその権利を行使せずに、怠惰により落ちぶれた時、そういう人も等しく救わないといけないと言うのだろうか?

私個人、心情的にはNO(救わなくていい)であるが、では目の前に自己責任とは言え、貧乏故に、死んでいく人を平気で見ていられるかというとそんなことはない。そこ、ヒューマニズムが福祉や再配分の問題を解決する糸口になるのかもしれない。
posted by しもす at 00:00| Comment(0) | 日常