2022年07月09日

IT人材の「混ぜるな危険」に疑問、に疑問

2022年6月23日の木村岳史のコラム。
いつも現場人間以上の洞察力で「なるほど」と唸るほど切れ味のあるコラムを届けてくれる。

ところがこの号だけは頂けない。
ITには守りと攻めがある。いわゆる保守とDXなど推進する新規開発。
多くの起業では、これらを担う人材を2つに分け、別々の組織にする。
これは私自身も多くの企業と接してきたが、この業界で初めて働きだしたころ頃から引き継がれて来たことであり、違和感はなかった。いやむしろ正しい組織のあり方だと思って来たし、そう意識する必要もないくらい当たり前のことだと思って来た。

木村氏のコラムを読んで目から鱗・・とはならない。
そもそもどうしてこの組織の在り方がおかしいと言うのか論拠が希薄過ぎる。
「多様性が重要」だから、だけでは根拠が希薄であり、「多様性」が正しというだけの原理主義である。

現場にいると、よくわかること。
保守する人間と、開発をする人間ではタイプが違う。
誤解を恐れずに言うと、開発をしたいと思う人の方が優秀である。
IT業界は技術革新が激しいから、ほぼ毎日学んでいないと、時代に遅れてしまう。
労働時間も長く、自分の時間を犠牲にすることも少なくない。
能力的に、学んだり、達成への努力をする人間にしか務まらない。

保守の作業は単調で、ほぼ決められたことを一定時間に正確に実行することを求められる。
保守の至上命令は本番のトラブルを出さないことである。
創意工夫は必要ない。「いつもと違う」ことをして、本番トラブルを出すなどあってはいけない。
できるだけ作業を単純にし、自動化し、「誰がやっても同じ結果になる」ことが保守の成功の頂点である。

ただし、システムはそんなに単純なものではなく、日々の保守運用には魔物が潜む。
どうしても完全に単純化され、自動化されたオペレーションで全てが回ることはない。
規模が大きくなれば全てを完全正確に実行するだけでも大変な作業である。
そのため、どうしても保守には数%優秀な人材が必要となる。
イノベイティブである必要はないが、システム全体を網羅的に理解し、起きている状況を瞬時に把握し、万が一の時にどういうアクションを取るかを瞬時に判断できる人である。システム全体を把握するのは人間には無理なので、階層化する能力、つまりアーキテクチャ的能力も必要である。実は大企業のシステム保守はこの数%の人に支えられている。後は置き替えが可能な人材だ。

さて、このような優秀な人材なら、ITを始めた時に新規開発を経験すれば、その道の一流のプロになることもできるだろう。ただし、「運悪く」(と思っているのは私だけかもしれないが)、保守を長く経験すると、本番システムで障害を起こさないことが最も崇高であり、誇りに思うようになってしまう。

時として、新しいイノベーションを志す若い人や、経営陣が、「改革」を阻む抵抗勢力は、このように不幸にも保守を長く担当することになってしまった、優秀な人達である。新しい技術やシステムの導入することは未知や障害を伴い、少々の努力では実現しない。だから本番の障害を引き起こす可能性は当然ながら高い。
彼らは「本番運用で障害を出さない」という誰が聞いても正しい命題を掲げて、その導入に反対する。もしも「こういうことが起きたら」どうなるんだ、「こういう対処」はできているのか 正しく動くことをどう担保するのか?
新しい技術なんだからそんなことに答えられる人はいない。命題は正当だし、論理は正しく、実績も高い。そんな人たちに抵抗されて、抵抗に屈せず、新しい技術を導入できる人材なんているだろうか?
システムの障害は経営陣の進退も左右する時代である、改革は必要だと頭で理解していても、リスクを冒すことはできない。

「混ぜると危険」というのはこういうことである。絶対混ぜてはいけない。もちろん彼らの意見は貴重であり、十分検討しなければいけないことであるが、故に新規システムはお断りだ、という態度をとる人間、元がどれだけ優秀であったとしても、排除すべきである。

単純に多様性が重要というだけでは、本番トラブルを出すわけにはいかないと言っていることと同じ原理主義だ。
保守の何を是とし、リスクテイクして、どこを攻めるかを判断するのが、真のCTOの役割である。


posted by しもす at 15:53| Comment(0) | IT業界

2022年05月05日

splidditを使ってみた

昨日の五十嵐歩美氏の動画で紹介されていた、http://www.spliddit.org/ を使ってみた。
内容は彼女が動画で紹介していたものとほぼ同じ。
かなり現実世界を単純にしている。
Divide Goodsというデモをやってみた。ところが、5分くらいProgressinの表示がグルグル回って

We encountered a server error. Sorry for the inconvenience.

なんだよこれっ!単純なアルゴリズムなのに、それすら求められないの?
こんなんじゃ誰も使わないよ。五十嵐さん、何とかしてよ!

数学のテーマとしては面白いかもしれないけど、現実世界にはほど遠いなと感じる。
まず、欲望を数値化することが可能であるという前提。
私のモノの価値の合計と、金持ちのモノの価値の合計が同じく1000であるということはあるまい。
(デモではいくつかの商品が自分にとって何点の価値があるかを評価し、合計が1000になるようにする)
一般人がキャンプに行って遊ぶのと、金持ちがマイアミのビーチで遊ぶのは同じ価値ではない。

だから、有限の資源を金持ちと貧乏人が同じ土俵で分けるという設定に無理がある。
現実世界ではこのような状況はまずない。

年金の問題にしても、年寄世代と、若い人のどこに線を引くのか、中年世代もいづれ年金受給者になるのだから、わざわざ自分の年金を減らすような政策を支持しないだろう。
もっと大胆に大雑把に現実世界を捉えるモデルはどこかに存在しないのだろうか?


posted by しもす at 23:58| Comment(0) | 社会

2022年05月04日

公平な分配を数学で導けるか

初めて「社会」というカテゴリーを追加。
今年1月12日の日経に目に留まった記事があったので、後で見直そうと取っておいた。
国立情報学研究所助教授、五十嵐歩美氏のインタビュー記事。
五十嵐氏は、「限られた資源をうまく分配しなければ、妬みや不満が膨らむ。問題を解くためのアルゴリズムは不公平感を解消し、適切な分配を導けるのか」という課題を研究している。非常に興味を惹かれた。そんなアルゴリズムがあるんなら、最も公平な分配を導けるのではないか?古今東西、政治家を悩ませ、資本主義を腐敗させた分配の問題が解決できるのではないか?

まあ、ことはそんなに簡単ではないのだが・・・

とりあえず国立情報学研究所主催、五十嵐氏の講義をYouTubeで拝聴してみた。

そのサマリー。
良い分配とは、以下の2つを満たすことである。
@分配に参加するエージェント(という呼び方をしていた)が妬みや不満が最も少なくなること
A資源の配分が最大効率で行われること
単に他者を妬むことない分配を実現するなら、何も分配しなければいい。ただし、資源の最大効率配分が行われていないのだから意味がない。

彼女は数学者なので、証明することに重きを置いていた。(そこが少し残念)
離散数の資源を公平に分けることは不可能であるが、近似的に分けることは可能である。それがEF1による分配ということ。
EF1による分配を行うアルゴリズムは短時間で解を求めることができる。(と証明されている)
資源配分の最適化はパレート最適と言われ、EF1&パレート最適を最大化する問題はNP困難である。

まあ、こういう話である。

会社は労働者の賃金と株式配当、内部保留をどの比率で分配するのが適切か。
法人税をどれだけにするのが、その国において最大の効率を得られるか。
国は年金や医療費に国家の予算を使い過ぎているか?

公平性を求めるアルゴリズムがあって、それを政治や行政の中に取り込めて、誰もが納得するのであれば、政治家も選挙もいらない。アルゴリズムとそれをチューニングする一部の技術者とコンピューターがあれば、「分配」という行政サービスは事足りるのではという幻想を抱いたが、やはり幻想だったのだろうか。

こういった複雑な問題を解くカギは見つからなかった。仮にEF1&パレート最適を最大化するアルゴリズムがあったとしても、人はそれで満足することはない。公平であっても、公平であることが認識できるかどうかわからない。隣の庭の芝は青く見えるのだ。そして、公平であっても満足できなければ、行政に対して圧力を及ぼすパワーが働く。持たざるものは不満の声を届ける知恵もなく、結局政治を動かすのは持てる者である資本家である。アルゴリズムは彼らを屈することはできない。
そのアルゴリズムはせいぜい、対等である者達同士の問題解決を提供する程度だろう。

それを解決するのはアルゴリズムには期待できない。なにか別の仕組みが必要なのだと思う。

(これを解決策というには時代に逆行しているが・・)

もともと人はみな公平であるという考えは近代のものであったはず。
社会には階級があり、金持ちと貧乏がおり、職業には貴賤があった。
このような身分制度の社会では階層間の移動はできないものと認識されていたから、例え上流階級の人間が好き放題ふるまおうと、不満はあれど、下流の人々は運命として受け入れてきた。
このような社会の方が実は安定しており、不満が表に吹き出すことはない。
江戸時代やインドカースト制のように階級社会を作る方が為政者には都合の良い社会を作ることができた。
そして、ある意味人々はその現状を受け入れた。
ところが「そうではない。人はみな公平なんだ」と学校でも教えるようになったとたんに、剥き出しの不公平感が生れてくる。

五十嵐氏の分配は、「不公平感」を解消するものであったが、この不公平感も近代社会が生み出した、一つの幻想であるかもしれない。人は生まれ持って公平ではないし、そう認識する方が幸せなのかもしれないのだから。

繰り返すが、これを「公平」配分の解決法だというつもりはない。
ただ、「公平」だと教えられてるだけではなく、「公平」ではない社会だと言うことを認識し、それの達成は困難であり、人類共通の努力目標である。くらい教えて欲しい。
そうでもないと単にSNSに不満を書き出すだけの人間を大量生産するだけになってしまう。それは「公平」を解決するためのなんの役にも立っていない。むしろ、はけ口になる分、社会を「公平」に向かわせようとするエネルギーを失っているだけなのだから。

posted by しもす at 17:14| Comment(0) | 社会